1/十アリアと羽鳥英里紗

  (「カリンカプラン 春物語」 第一章『ある天使の一日』より


      1/十アリアと羽鳥英里紗

 ガマズミ学園にいる人たちは、優しい人たちばかりです。

「それはきっと貴方の勘違いよ。思い違いをしていると言ってもいいわ」

 わたしの言葉に、羽鳥英里紗さんは大げさに溜息を吐きました。英里紗さんは身振り手振りを大きくして、ガマズミ学園の教職員さんたちがどんなにひどい人たちなのかを語ります。わたしはよくわからなかったので、黙ってそれを聞いていました。
 学園の食堂に、英里紗さんの声は強く響き渡ります。けれど、注目されることはありません。食堂を使っている人数がそんなに多くない、というのもありますが、この学園では、生徒の行動は自由にできる範囲が大きいのです。英里紗さんも、教室にいらしたのはお昼からです。朝は弱いのよ、とは本人の談で、それが許される程度には、わたしたちには自由が与えられています。
 もっとも、完全に野放しにされているわけでもありません。食堂の天井には、わたしたちを見つめるカメラが常に動いています。食堂だけではありません。校舎のあちらこちらに、学園のあちらこちらに、カメラは設置されているのです。
 わたしたちは、常に見られています。
 神様が、地上を見下ろすように。
 一挙手一投足を、記録されています。
 だから、もしかしたら、英里紗さんはわたしを心配してくださっているのかもしれません。それなら、英里紗さんはやっぱり優しい人です。同じガマズミ学園に通う、同じ悪魔憑きの、同じ罪深い子。
 わたしと、同じ。
 わたしのルームメイトの、英里紗さん。
 彼女は、つり上がった瞳でじっとわたしを睨んで言います。

「アリア。貴方は教職員のことを優しいというけれど。学園側にとって私たちはモルモットでしかないんだから。優しくみえるように振る舞っているだけなのよ。騙されては駄目」

 わたしは黙って頷きます。
 でも、違いがわたしにはわからないのです。
 優しいことと。
 優しく見えるように振る舞うことと。
 その二つのあいだに、どれくらいの差があるのか、わたしはわからないのです。人の心はわかりません。もう一人のルームメイト、周子さんのように、他人に対して敏くはないのです。
 わたしにとって、お父さまは優しい人でした。
 優しくて、良い人だったのです。
 わたしにとって、お母さまは優しい人でした。
 優しくて、良い人だったのです。
 それが他人にとっては違うと聞かされたときに、わたしは世界のことがよくわからなくなりました。いえ、もとからなにもわかっていなかったことを、思い知らされただけなのかもしれません。それは今でも変わっていません。お父さまも、お母さまも、わたしの中では『優しい人』なのです。
 この学園にいる人たちが、わたしにとっては、『優しい人』であるのと同じように。
 誰もが、優しいです。
 なぜって。
 わたしを傷つけたりしないのですから。

「貴方は、触れただけでも壊れてしまいそうなほどに、脆いのだから。自分で気をつけないと駄目よ」

 わたしは黙って頷きます。
 でも、わたしは自分ではよくわからないのです。わたしは本当に壊れてしまいそうなのでしょうか。わたしは脆く弱いものなのでしょうか。
 わかりません。
 わたしの身体があまり強くないのは本当のことです。わたしの肌は弱く、強い陽の光に耐えきれません。この穏やかな春の陽射しでさえ、わたしにとっては軽い毒なのです。肌にお薬を塗って、陽射しの下にできるだけでないようにしないといけません。
 白い肌と赤い瞳が、その証。
 神様から授かったものだと、とお父さまはわたしに言いました。それは神様がくださった証なのだ、と。
 きっと、そうなのでしょう。
 それは、証なのです。
 わたしの、罪の、証。

 ――背中に生えた、ねじくれた翼と同じように。

 わたしはちらりと、後ろを振り返るようにして自分の背を視ます。布製の羽根カバーは、自分で作ったものです。レース生地も使わせて頂いて、可愛らしく作れたと自負しています。それでもそれは、わたしの醜さを隠すための鎧なのです。
 可愛らしい羽根カバーの下には、似てもつかない翼があります。醜くねじくれた、骨と皮でできた、飛ぶことのできない翼。ある日生えてきたそれこそが、わたしが悪魔憑きの病である証拠です。
 わたしのことを、天使と呼ぶ職員さんもいます。周子さんは、わたしのことをえんちゃん、エンジェルちゃんと呼びます。でも、それはわたしにしてみれば、ひどく居心地の悪い呼ばれ方です。
 それは、罪の証なのです。
 飛べない翼。
 天国に行けない翼。

 ――わたしは、悪い子なのです。アリアさんに、心配してもらえるような子では、ないのです。

 そう言ったとしても、アリアさんはきっと笑って聞き流すでしょう。私の方がずっと大罪人だわ、と嘯いたこともあります。
 どちらの方が、というのはわかりませんが、わたしも、彼女も、周子さんも、罪人なのは間違いありません。
 この学園に通う子供は、誰もが悪魔憑きの病ですなのですから。
 わたしは、飛べない翼が。
 英里紗さんは――

「………………」

 ふと気づくと、英里紗さんはじっとわたしを見つめていました。お月さまのように金色の瞳の、縦に長い瞳孔が、わたしを捉えません。固く閉ざした唇の端からは、ほんの僅かに長い八重歯が――牙が覗いています。
 吸血鬼のような、牙。
 わたしを見つめる英里紗さんの瞳は、どこか熱っぽいです。そういえば、とわたしは思い出します。ここは食堂で、わたしたちはご飯を食べていたのです。英里紗さんの前に置かれた食器には、もう何も残っていませんでした。わたしは小食で、よく食べ切れずに残してしまうので、羨ましいかぎりです。
 その英里紗さんが、わたしを見つめる目は。
 食器におかれた食べ物を見る目と、あまり変わりないように思えました。
 だから、わたしは。

「英里紗さん。いいんですよ?」

 いつものように、微笑んで。
 彼女に、手を差し出しました。
 わたしの白い手が、白い指先が、英里紗さんへと差し出されます。それを、彼女はじっと見つめました。こくりと、英里紗さんの喉が音を立てて鳴ります。わずかに開いた口元には、真っ赤な舌が覗いていました。

「……アリア」

 声は、熱に浮かされたように、震えていました。
 はい、とわたしは頷きます。
 英里紗さんは、もうわたしを見ていませんでした。彼女が見つめているのは、差し出されたわたしの手だけです。少しずつ、少しずつ、誘いこまれるように、彼女の口が、わたしの手に近づいてきます。
 恐れることも、否定することも、ありません。
 英里紗さんが、わたしを傷つけることは、ないのです。彼女は、彼女の罪に振り回されているだけなのです。彼女は、彼女の病に突き動かされているだけなのです。
 仕方がないことなのです。
 生きることは、罪を負うことなのだ、と。
 生きているのは、それだけで罪深いのだ、と。
 わたしが読んだ本には、そう書いてありました。だからこれは、おかしくもなんともないのです。
 わたしは微笑んで、英里紗さんの罪を受け容れます。
 それが、わたしにできることなのですから。
 拒む理由は、どこにもありません。
 英里紗さんの、舌先が、わたしの指に触れて。
 ぬるりと、
 濡れた、
 熱い感触が、
 わたしの肌を撫でて。
 そして、

「――教室に、戻らないと」

 そんなことを言って、英里紗さんは、席を立ちました。
 慌てたように離れた彼女の口と、わたしの指先に、濁った唾液が糸を引きます。それはすぐにちぎれて、雫となって机の上に落ちました。
 わたしは顔をあげて、立ち上がった英里紗さんを見ます。彼女は、わたしを見ていませんでした。視線を追いかけると、壁にかかった時計が、じきに授業が再開されることを示していました。
 英里紗さんの頬は赤く、彼女は、わたしを見ようとしませんでした。目を逸らしたままに、

「あまり食事に時間をかけると、午後の授業に遅れるわよ。それじゃあ、お先に失礼」

 そう言って――わたしの食器の上に残っていた、小さなパンを掴むと、英里紗さんはそれを口に放り込みながらさっさと立ち去ってしまいました。お腹が空いていたのでしょう。
 なんだか、微笑ましくなって、わたしはくすりと笑ってしまいます。

「わたしも、戻らないと」

 食器の上には、まだ半分ほどご飯が残っていましたが、最後まで食べきることはできないでしょう。それでも少しでも食べなければ、と思い、わたしは必死になって手を動かします。
 ああ、わたしは悪い子です。
 生きるためには、食べなければいけないのに。
 わたしが生きるために、奪われた命だというのに。

 わたしは時々、それすらも億劫になってしまうのです。