2/十アリアと香取周子

  (「カリンカプラン 春物語」 第一章『ある天使の一日』より

 


     2/十アリアと香取周子

 窓の外は、温かな春の陽気に包まれていました。

「良いお天気……」

 窓から少し離れたところを歩きながら、わたしはぼんやりと呟いていまします。校舎の廊下には、人の姿はまったくありません。学園、と言っても、生徒の数はとても少ないです。
 先生たちも、本当の先生ではないそうです。資格は持っているんだけどね、というお話しを聞いたこともありますが、難しくてわかりませんでした。
 わかるのは、この学園に通っている生徒は、わたしと同じ悪魔憑きの病に侵されているということだけ。
 特別な学園、と言われましたが、わたしにはよくわかりません。その、特別でない学園、というものがどういうものなのか、わたしは少しも知らないのです。
 わたしの知っていることなんて、ほんのわずかなものです。
 お父さまとお母さまと暮らした、あの家のこととか。
 わたしの部屋に置かれていた、神様のことが書かれた重い本のこととか。
 部屋の窓から見えた、空のこととか。
 そのくらいのことしか、知りませんでした。学園に通うようになって、わたしは少しずつ多くのことを学んでいますが、そのどれもこれもがぴんときません。あまりにも自分の身とかけ離れているせいでしょうか。遠い世界のことにしか思えないのです。さもなければ、ありふれた当たり前のことにしか思えないのです。
 たとえば。
 学園をぐるりと囲むあの高い壁も、わたしには、部屋の壁との違いがわからないのです。

「高い壁。わたしの翼が、空を飛べたら。あの向こう側へ……天国へ……」

 ふらふらと、わたしは誘われるように窓辺に立ちます。壁は校舎から離れているのに、高さがあるせいで向こう側を窺うことができません。校舎だけではありません。寮の部屋からも、病棟からも、教会からも、外側を窺い知ることはできないのです。
 わたしたちに見ることができるのは、空だけです。
 向こう側と繋がっている、青い空。
 春の風は強いのか、雲がするすると流れていきます。地上では、春の花が咲いています。カリンカの花は、まだ咲きません。冬の寒さから抜け出せていないかのように、小さな蕾があるばかりです。
 わたしたちは、蕾なのでしょうか。
 それとも、既に花開いて、散るのを待つばかりの花なのでしょうか。
 春の陽光にあてられたせいでしょうか。わたしはふいに、そんなことを考えてしまいました。それはわたしの考えるべきことではないというのに。
 わたしがするべきなのは、祈るべきこと、だけなのに。

「――あ、」

 くらりと。
 眩暈がしました。窓越しとはいえ、陽射しに近づきすぎたせいかもしれません。ふらふらと視界が揺れます。まっすぐ立っていることさえ難しいです。太陽に近づきすぎた小鳥のように、温まりすぎたわたしの頭は、意識をあっさりと手放そうとします。あれほど明るかったはずの景色が、急に色を失って暗く染まって、
 わたしは、
 青空に、
 指先を。

      †

「だーいじょーぶー?」

 目の前に、周子さんがいました。
 そして、青空はどこにもありませんでした。

「……周子さん?」
「そうだよ。しゅーこでーすっ。えんちゃんえんちゃん、大丈夫ー? 目ぇ覚めた? おはよう?」
「……おはようございます」

 わけがわからないままに、わたしは挨拶を返します。挨拶をされたら、挨拶をかえす。わたしはそう教わりました。だからそうしなければならないのです。
 いったい、何がどうしたというのでしょう。
 四方が真っ白な空間で、周子さんが、すぐ間近でわたしの顔を覗きこんでいました。といっても、彼女の瞳は見えません。わたしと同じ、悪魔憑きの病。ルームメイトの、香取周子さん。彼女の瞳は、拘束具で覆い隠されています。
 自分で外すことのできない眼帯。
 極めて危険な症例だから外してはいけないよ、と先生たちから命令されています。周子さんは外してよとお願いしてきますが、先生たちの命令の方が強いものなので、わたしにはどうすることもできません。
 その周子さんは、わたしの挨拶に対して、満足げに笑いました。

「おはおはー。よかった目が覚めて。廊下で倒れてたときは、もう起きないのかと思ったよー? ルームメイトが二人になっちゃうって」

 言って、周子さんはぴょこんとわたしの上に覆いかぶさるように、ベッドの上に飛び乗りました。そう、ベッドです。周囲全てが白いのは、白いカーテンで覆われているからでした。
 保健室の、白いベッド。
 気づいてしまえば、見慣れた場所です。わたしはおそらく廊下で倒れて、保健室に運ばれたのでしょう。初めてのことではないので、驚きはしません。悪魔憑きの病と関係なく、わたしはあまり体が強い方ではないからです。
 元気はつらつとした周子さんとは、大違い。
 わたしは飛べないだけでなく、歩くことさえ、そして生きることさえ、満足にできないのです。
 周子さんは、ぱたぱたと足を動かしながら、人懐っこい笑みを浮かべて、

「でもでも、寮室に二人しかいないって、珍しくないんだけどね。なんでも三人揃ってしばらくしたら、また減っちゃうって噂があるんだけど。えんちゃん知ってた?」
「噂には、あまり詳しくないんです。わたし、お話しするひとって、あまり多くなくて……」

 ルームメイトの、周子さんと英里紗さん。
 それから、学園の先生たち。
 あとは……教会にいる、あの人くらいでしょうか。クラスメイトの皆さんとお喋りする、ということは、ほとんどありません。
 仲が悪い、というわけでもありません。学園の中で、喧嘩や諍いというのは、ほとんど起きません。平和で、穏やかな日々を過ごしています。
 ただ単に。
 自分の世界と、他の誰かの世界が、なかなか触れあわないだけで。
 わたしと周子さん、英里紗さんの三人は、寮生の中でも仲の良い方なのでしょう。同じ部屋で暮らしているのに、一言も会話をしないというのも、珍しくはないと聞きます。
 三人で、仲良く。
 つつがなく、生きています。

「わかるわかるー。お喋りに付き合ってくれるひと、そんなにいないもんねー! センセイたちも、いっつも忙しそうだし。けんきゅーじょから来た人たちは、近づいてくれないしさー。えんちゃんはこんなことしても逃げないからいいよねー」

 言って、周子さんはベッドの上、わたしの上でごろごろと左右に転がります。服がめくれあがるのにもお構いなしです。眼帯をしているので見えていないのかもしれません。もっと、周子さんは目が見えないだけで、わたしよりもずっと敏いのですが。
 目が見えない。
 真っ黒な世界。
 なのに周子さんは、わたしの瞳をじっと見て、まるで眼帯越しに目と目を合わせるようにして言うのでした。

「えんちゃん、お喋りしよっ。えんちゃんを保健室に運ぶって言って、しゅーこ授業サボっちゃったし」
「ええ、いいですよ。いっぱいお話ししましょうね」

 わたしは頷きます。授業に出なければならない、というルールは、実のところありません。可能なかぎり出ること、と命じられているだけです。それよりも、倒れたときは急に動かず休む、という指示の方が、より優先順位が高いのです。
 わたしはベッドに横たわったまま、周子さんの頭を撫でます。そうすると周子さんが喜ぶ、というのを、わたしは知っているからです。周子さんはいつものように、嬉しげに喉を鳴らしました。まるで猫のようです。寮では誰かが猫を飼っていて、ときどき見かけるのですが、わたしは猫とどう接していいのかわからないので、一度も触ったことがありません。
 きっと、いまの周子さんのような感じなのでしょう。
 わたしは、猫のような彼女を撫でながら、そっと話しかけます。

「周子さん、わたしでよければ、いつでもお話ししますよ。そうだ、今度、一緒に教会にいきましょう? あそこの懺悔室にいけば、あの方がたくさんお話をしてくださるんです。お茶とお菓子もあるんですよ?」

 わたしの言葉に、周子さんの動きがぴたりと止まります。
 彼女は、わたしを見ていませんでした。どこか遠い一点を、睨みつけるようにして固まっていました。もしかしたら、その方角には、教会があるのかもしれません。
 離れの教会。
 奇妙なクラスメイトがいる、あの場所を睨むようにして、周子さんは言うのでした。

「――知ってるよ、それくらい」

 声は低く、冷たいものでした。先ほどまでの明るさが、全て嘘であったかのように、周子さんの声は重かったです。
 わたしは気にしません。周子さんの様子が、ときどき変化するのは、いつものことだからです。明るい周子さん。冷たく重い周子さん。どちらも、わたしのルームメイトの周子さんです。
 それに、いつも通りなら。

「えんちゃんえんちゃん、しゅーこ、ちょーっとお願いがあるんだけど! しゅーこのお願い、聞いてくれる?」

 案の定、周子さんはいつものように、すぐに明るくなってわたしに笑顔を向けるのでした。
 だからわたしも、微笑んで答えます。

「はい、なんでしょう?」