2/羽鳥英里紗と十アリア

(カリンカプラン春物語 第二章「ある吸血鬼の一日」より)

 

 


 学生証をスリットに通して部屋に入る。寮の部屋に鍵はない。どこもかしこもそうなっているように、学生証がカードキー代わりになっているからだ。カメラだけでなく、学生証をもってして私たちの行動は監視され、記録されている。
 部屋は静かで、暗かった。
 扉を後ろ手にしめ、ロックの音を聞きながら電気をつける。周子の姿はない。あの子の帰りが遅いのはいつものことなので心配はしていない。
 代わりに、アリアが横たわっていた。
「ぅ…………」
 小さな寝息。可愛らしい色合いの枕に顔を埋めてうつ伏せになるアリアは、どことなく寝苦しそうだった。
 仕方がない。翼が生えたアリアは、仰向けには眠れないのだから。
 彼女の背からは、翼が生えている。教室で見かけたような、デフォルメされた羽根カバーではない。ねじくれた骨に薄い皮を張ったような、醜く歪んだ濃い肌色の翼だ。
 羽毛なんて生えていない。飛ぶこともできない、形だけの翼。
 見るたびに、生きづらそうだな、と思ってしまう。
 私の症状はあまり外に出ないけれど、アリアや周子のそれは傍目にも明らかだ。生活をする上で不便なところも多々ある。
 生きづらい。生きるのが難しい。生存に適していない。
 それは私からしてみれば、とてつもなく恐ろしいことだけれど、アリアにとっては些細なことなのだろう。彼女は今も、外敵を警戒することなく寝入っている。
「ここは、貴方にとっては巣なのかしらね」
 返事を期待することない呟きだった。
 けれど、それだけでも十分だったらしい。浅い眠りだったのか、アリアは身じろぎしながら身を起こした。
「ん、ぅぁ……」
「起こしてしまったかしら」
「いえ、大丈夫です……平気です……起きていますよ……」
 言うものの、瞳はうろんなままだった。意識が半分眠っている。消灯時間はまだ先とはいえ、このまま寝入ったほうが彼女のためによさそうだった。
 私は黙って窓に近寄り、開いたままだったカーテンに手をかける。
 窓は分厚く硬い。換気できる程度には開くものの、全開にはできない。窓から外に出ることは叶わず、窓から入ることもできはしない。
 窓の外が暗いのは、学園の敷地内に明かりが少ないせいだ。
 夜中に外に出ることを拒んでいるよう。
 そしてそれらの全てを拒むように、私はカーテンを閉め切った。
 天井の明りが、先までより強く感じられる。明かりの下、アリアは眠そうに目をこすり、それから私に微笑みかけた。
 背の翼を、隠そうともしない。
 初めてであったときは、そうではなかった。あのときのアリアは、自身の背をひどく恥じていた。
 居間では、部屋の外ではカバーをかけるけれど、寮室では隠さなくなった。時折気にするそぶりこそ見せるものの、慣れた、ということなのだろう。
 翼に、ではなく。
 ルームメイトとして、共同生活をすることに。 
「昨年に比べると、随分と穏やかだわ」
「そうかもしれませんね」
 翼を見せるのを恥ずかしがっていたアリア。
 その彼女が今見せている微笑みは、穏やかなもので――けれどアリアは、違う意味で受け取ったらしい。彼女は私をじっと見つめて、
「それはきっと、英里紗さんが穏やかだからですよ」
「そう――なのかしら。吸血鬼の、悪魔憑きなのに?」
「ええ、絶対に。吸血鬼の、悪魔憑きでも」
 微笑んで、肯定する。
 穏やか。
 心が凪いでいる。
 穏やかな世界。
 そうなのかもしれない、と私は頷く。それはきっと、間違いではないのだろう。確かに、穏やかだ。食べるものはある。生命を脅かされない。閉ざされてはいるけれど、この世界は平和だ。ルームメイトとの仲も悪くはない。悪いことなど、何もない。
 それはまるで楽園だ。
 穏やかで、不安のない、満たされた――

   ――腹を裂かれる、鵞鳥のイメージ。

「…………っ、」
 ぐらり、と。
 世界が揺れたような気がした。脳裏に一瞬浮かんだ、あまりにもおぞましい、真っ赤なイメージ。それが何だったのか、私は既に思い出すことができない。なのに、それがどうしようもなく不吉なものなのだということだけは理解してしまっている。
 穏やかな世界のはずだ。
 満たされた世界のはずだ。
 なのに、どうしてだろう。
 それがたまらなく、おぞましくもおそろしいと思ってしまうのは。
「――英里紗さん!?」
 声を荒げ、アリアがあわてて駆け寄ろうとする。けれど、ままならない。彼女の重心は背の翼のせいで不安定で、ベッドから飛び降りるだけで転びかけてしまう。
 その身体を――
 私は、抱きとめた。
「英里紗、さん……?」
「なぁに?」
 自分でもわからなかった。
 いつのまに、距離を詰めたのかも。気づいたら、彼女は私の腕の中に納まっていた。
 自分でも、わからない。
 抱きとめたアリアの身体を、どうして手放さないのかも。転ぶのは防いだのだから、もう離してもいいはずなのに、どうしてがっしりと捕まえたままなのか。先まで穏やかなだった心中が、どうしてこんなにも焦燥感と飢餓感で荒れ狂っているのかも。
 自分でも、わからない。
 彼女の瞳に映り込む私の顔色は、青ざめているのに。
 どうして――瞳が、真っ赤に輝いているのか。
 爛々と輝く瞳が、アリアを見つめている。
 疑問。
 湧き上がる、疑問を。
「そう、その通りよ。私は――吸血鬼なの」
 私は、私自身の言葉で、ねじ伏せる。
 わからない、なんて、嘘だ。
 本当は、わかっている。
 自分がどういう存在なのかも。
 この胸に荒れ狂う衝動が、何なのかも。
 単純明快で、唯一無二の答え。
 吸血鬼。人の血を吸うもの。人を捕食するもの。人の上位存在。人を喰い散らかして生きる在り方。
 それが、私だ。
 だから、疑問なんて、いらない。
 世界のルールは、単純だ。
 食べられたくない。死にたくない。
 そのためには――食べないと。
 食べられるのではなく、食べる側に回る。
 衝動。焦燥。飢餓感。脳みそへの命令。逆らえない。抗えない。
 いや、抗いたくない。
 抗ってしまえば、破綻する。
 私は、私の在り方を、見失うことになる。
「ふふ、ふふふ……」
「っ、――」
 零れる笑みを隠そうともせず、ベッドにアリアを押し倒す。翼が押しつぶされたのか、小さな痛みの声をアリアはあげた。こうなった私の力は強い。抵抗は無意味だ。燃えさかるように脈動する血液は私の性能を引き上げる。それが自滅への加速だとしてもだ。
 けれど、そもそも――彼女は、抵抗なんて、しなかったけれど。
 世界がゆっくりに感じる。
 自分の鼓動だけが、煩いほどに早鳴りしている。
 引き延ばされた世界で、アリアの表情が、よく見える。
 彼女は、驚いていて。
 けれど、怯えてはいない。
 受け容れるように、微笑んでいる。
 それはどこか、幸せそうで。
 それが、無性に腹立たしくて。
 アリアの首筋に、乱暴な口づけをした。
「ぁ――――」
 息が、漏れる。
 牙を。
 食い込む。
 形を、
 在り方を、
 ねじ込む。
 血の味が、口の中に広がって。
 唾液が、肌を濡らして。
 私たちは、混ざってゆく。
 私たちが、溶けてゆく。
 ああ、それは、
 なんて。
 なんて、幸せな。
 満ち足りた――
「あ、」
 ごくん、と。
 熱い何かを嚥下して――そうして、私はようやく正気に戻った。欠けていたものが満たされる感触。まだ足りないと叫ぶ本能。もっと、全てをと叫ぶ声に心をかき乱されながら、私はばっと身体を離してベッドから降りる。
 そうしなければ、本当に全てを食べてしまいそうだったからだ。
 全身は、燃えるように熱くて。
 思考だけが、急速に熱を失って醒めてゆく。
 アリアの動きは、私とは対照的に緩慢だった。ゆっくりと身を起こすアリアの首からは、微かに血が零れている。傷跡からすれば少ない、と言ってもいい血だ。
 流れる血から、目を逸らすことができない。
「医務室に、違う、そうじゃなくて、」
「大丈夫ですよ」
 何もできずにいる私を置いて、アリアはてきぱきと自身の手で治療をする。ベッドサイドの棚から消毒液と絆創膏を取り出し、手早く傷を隠してしまう。本格的な治療よりも、まず傷口と血液を隠すことが大事だとわかっている行動。
 それは慣れたような手つきで――いや、違う。
 ような、なんて言葉は、嘘だ。
 彼女は慣れている。
 私が血を吸うのは、これが始めてではないのだから。
「――ごめんなさい」
 謝りながらも、私の胸には、黒々としたものが埋まっていた。
 ごめんなさい、だなんて。
 どの口がそんなことを言うのだろう。
 衝動を、病を、私は堪えることができないというのに。
 今だってそうだ。
 口では謝りながらも、私はまたきっと求めるだろう。
 それが私の在り方なのだ、と言い訳をしながら。
「いいんですよ。いいんです。英里紗さん。わたしの血を吸っても、いいんですよ」
 そしてそれを――アリアはきっと、拒まないのだ。
 拒まない彼女に甘えるように、私はまた、血を吸うのだ。こんな謝罪は茶番だ。私が彼女の血を吸ったのは初めてではないし、私が謝ったのも初めてでもないのだから。
 我慢ができない。
 堪え切れない。
 そういう病。
 私は何度でも、私の意志とは関係なく、同じ行為を繰り返す。
 そのことを全てわかった上で受け容れるかのように、彼女は微笑んで言うのだった。
「だって、私たちは、罪人なんですから」
「……アリア」
「生きることは、罪深いことだって神様も言っていました。ご自身の罪を、否定しなくてもいいんです。それは否定することじゃなくて、いつか許されることなんですから」
 ――ああ。
 私は、ふと思う。
 一点の澱みもない微笑みに、私は思ってしまう。
 人の手によって太らされ、やがては食べられる鵞鳥も、今の彼女と同じように微笑むのだろうか。
 こんなにも、幸せそうに。