3/香取周子と教会


 教会の扉は、いつ訪れても開いている。
 全ての罪あるものたちを受け容れる、というポーズなのかもしれないけれど、周子にしてみればそれはなんというか、蓋をしていない落とし穴みたいなもので、つまりは見え見えの罠だ。わかりやすい罠。わかりやすいから、つい足を踏みこんでも平気だろうと考えてしまう。そんなはずはないのに。閉ざされた学園の閉ざされた生活をかき乱すのが、この教会という穴だった。
「ねぇ。いる?」
「いるよ。やぁようこそ。今日は何の話をしにきたのかな」
 教会の奥、祭壇の上にいつもの探偵は腰掛けている。膝かけに隠された足は動かないそうだけれどあまり信じていない。そもそも彼女が本当に悪魔憑きの病なのかさえたまに疑わしくなる。
 けれどたぶん、それは本当だ。
 彼女もまた病人だ。
 頭がおかしくて。
 世界の認識が狂っていて。
 人とうまく接することができなくて。
 衝動を堪え切れなくて。
 歪な身体を抱えていて。
 傷つきあうようにしか繋がれない、
 悪魔憑きの病人。
 彼女だけが好き勝手やっているわけではない。周子たちはみんな好き勝手やっているのだ。自分だけの世界で、好きに生きている。ただそれが、他の世界と折り合いがつかないというだけで。
 もし彼女に特別なものがあるとしたら、教会という場所を与えられているということなのだろう。
「お茶とお菓子はいらない。すぐ帰るし」
 ぶっきらぼうに告げる。周子が明るく人懐っこく振る舞うのはその人に好かれたいからであって、その方が向いているからであって、内面までは明るいわけでもないし人懐っこいわけでもない。むしろ人に懐きたくなんかない。問題なのは相手が周子を愛してくれるかどうかで、周子が相手を愛してるかどうかなんて関係ない。
 周子は愛して欲しい。
 周子は構って欲しい。
 周子のことを見て欲しいし、周子のことを想って欲しい。
 その点で言うと、この探偵は周子のことを見てるし周子のことを想ってくれてはいる。たとえそれが哀れな子羊を見るような目だとしてもだ。教職員たちと似ているけれど、違うところもある。
 探偵は、教職員たちも同じような目で見ている。
 まるで神様だ。
 上から目線で、見降ろしてる。
「夜ごはんはすでに食べてきたのかな。食後の運動というわけだ。健康的ね」
「生きてるだけで消費していくから食後の運動なんていらない。周子は単にここで物を食べたくないだけ。何を盛られるかわかったものじゃない」
「何を盛られているのか、わかっているのに?」
 くっくっく、と探偵は笑う。何かを盛っていることを一切否定しない口ぶり。嘘は感じられない。まるで自分の犯行を自白する犯人だ。どこが探偵だというのだろう。
 教会に通う生徒たちがあれこれを話してしまうのは、教会という雰囲気に呑まれているだけではなく、薬の作用によるものだ――ということに周子は気づいているけれど、止める理由もない。そんなことは学園側からすれば当たり前のことで、探偵が学園側に太いパイプを持っているなら不思議でも何でもない。
 たまにある問診と同じだ。周子たちの感情を、心情を、自分から語らせることで推しはかろうとする。
 だから、そのことを咎めにきたのでは、ない。
 周子は探偵の横を通り過ぎ、奥の扉へと向かう。扉というか、門だ。悪趣味な門。人が絡みあう像がたくさん刻みつけられた、物々しく重苦しい門。そこにはわかりづらいけれど、カードスリットがこっそりと備え付けられている。それも二つ。扉の左右に。
 胸ポケットから出した学生証を、そこに通した。
「………………」
 何も起きなかった。試しに反対側のカードスリットにも通して見たけれど、反応はまったくなかった。扉は動かないし、何か異変が起こるようなこともない。
 懺悔室の扉は、固く閉ざされている。
「懺悔室は開かないわよ。今はまだね」
「今はまだ、っていうことはそのうち開くんだ」
「それはそうよ。開くべきときがくれば扉は開く。喇叭が鳴り響けば終末が訪れるみたいにね。その時には、君も門をくぐれるかもしれない」
 選ばれればだけど、と。
 探偵は小さく肩をすくめ、紅茶とお菓子に手をつけた。それには薬が盛られているはずなんだけれど、躊躇する様子はいっさいない。ずぶずぶと薬漬けで効果がないのか、それとも常に効果がでているのか。
 周子は言う。
「懺悔したいことなんてない。許して欲しい罪なんてない。周子はただ愛して欲しいだけなんだ。それさえあれば罪が許されなくたっていいんだ。救われなくたっていいんだ。天国になんていかなくたっていいんだ……」
 周子の口は滑らかに動きだす。お菓子も紅茶も口にしていないのに。やっぱり夜ごはんがおかしかったのだろうか。それとも教会の空気がおかしいのだろうか。
 それとも。
 周子の頭が、おかしいのだろうか。
「ここは既に楽園なんだ。周子は楽園に生きているんだ。別に出たくなんてない。治りたくなんてない。そんなものはいらない。周子は幸せなんだ。天使と吸血鬼と周子。三人でうまくまわっている。歪つかもしれないけれど世界はうまく触れあってる。だから変える必要なんてないんだ。このままでいいの。このままがいいの! 周子は! 満足してるの! 満たされてるの!」
「それは嘘だ」
 一言だった。
 一言で、探偵は周子の言葉を遮った。言葉の中にまざっていた嘘を、ばっさりと切り捨てた。
 秘密を暴くように。
 世界に真実を突きつけるように。
 探偵は言う。
「君は満たされていない」
「…………っ!」
「底の抜けたバケツと同じね。一時的に満たされても、それらはすべて流れ落ちてしまう。君は満たされない。満たされ切らない。羽鳥英里紗とおんなじ。常に餓えている」
「周子はっ!」
「香取周子が満たされているかどうかは、問題じゃないの。その嘘に意味はない。問題は真実の方にこそある。君たちは、うまく回っている。歪つな世界同士が触れても破綻せずにいる。仲良く、できている。だからこそ、よ」
「………………」
 やっぱり、と。
 周子は内心で納得する。やっぱりそういうことなんだ。なんていう悪趣味で嫌がらせなんだ。
 学園。
 共同生活。
 ルームメイト。
 噂話。
 それは、そのためにあるんだ。
 周子たちは、独りきりで生きていけるのに。誰とも共有できない世界で生きる悪魔憑きは、独りきりで生きていたほうがずっと効率的で問題を起こさないのに。
 一個所に集めて、共同生活をさせるのは、そのためなんだ。
 実験。
 治療。
 触れあうために。
 繋がるために。
 たとえその結果、傷つけあうだけに終わるとしても。
「ねぇ香取周子。十アリアのことは好き?」
「…………」
 周子は答えない。
 探偵は言葉を止めない。
「ねぇ香取周子。羽鳥英里紗のことは好き?」
「…………」
 周子は答えない。
 探偵は言葉を止めない。
「ねぇ香取周子。香取周子のことは、好き?」
「…………」
 周子は答えない。
 探偵は言葉を止めない。
「本来は誰もが罪人なのよ。でも、そのことに気づいていない。自分が罪人であることに気づかなければ、楽園を追い出されることもない。罪人であるということに気づく知恵がついてしまったから、楽園で生きていられなくなる」
「…………」
「自分が罪人なのだと気づいてしまう。自分の世界は歪つで、他人とは触れえないことに気づいてしまう。それなのに、他人がいなければ生きていくこともできない。その矛盾を、自覚してしまう。――おかしいわね、独りきりで生きてたら、気づかずに済んだのに」
「…………」
「普通に生きていた少女が。何かつらいことがあって。世界の真実を知って。真実に頭を殴られて。頭がおかしくなってしまいました。自分だけの世界を生きるものになってしまいました――それは罪ではないし、罪人ではないの。なぜって、その世界には、罪はないんだから」
 罪人は世界から追放された方なのよ、と。
 探偵は、しみじみと頷くようにそう言った。
 そんなことは――わかっている。
 独りきりの、楽園。
 独りきりで閉ざされた世界。
 そこに閉じこもって生きてたら、永遠に幸せでいられるのかもしれない。自分が満たされていないことにさえ気づかなければ、飢餓感に襲われずに済むのかもしれない。

 ――でも、知恵の味はそこかしこに転がっている。

 独りきりで完結していればそれでよかったのに。
 傷つかずに済んだのに。
 他人を関わって、他人を受け容れて、他人と傷つけあって。
 とりかえしのつかないことが起きて。
 そうして、楽園を追い出されるんだ。
 そんなこと、わかりきってる。
 わかってるのに――周子たちは、止められないのだ。
 誰かを求めることを。
 誰かと繋がることを。
 誰かと触れあうことを。

 ――たとえ、独りきりで生きていくしか、ないのだとしても。

「香取周子。君は気づいてしまっている。ご両親をその目で殺したときには気づいていなかったことに。同じような境遇の同じような病人と触れあうことで気づいてしまっている。君だけじゃない。羽鳥英里紗も、十アリアも、気づいている。だから、君たちの前に、懺悔室の扉は開くでしょうね」
「…………」
「懺悔室、なんていうと、大概に聞こえるけれど、気にしなくてもいいよ。気負わなくてもいいの。そんな大したものじゃない。懺悔ごっこみたいなものだから」
「…………」
 懺悔ごっこ。
 人間ごっこ。
 そういうものでしょう、人生って。
 そう言って、探偵は笑う。
 さっきからずっと、笑っている。
 彼女は何に対して笑っているのだろう?
 世界に対して?
 周子に対して?
 それとも、自分自身に対して、だろうか。
 周子にはわからない。
 彼女は周子に話しかけているけれど、周子にはわからないのだ。嘘か本当かさえ。彼女から飛んでくる電波は彼女が本当のことを喋っているとわかるけれどどうして本当のことしか言わないのかはわからないしいっそ嘘でも言ってくれたら罵れるのにそんなことしないし周子はそんなこと知りたくないしわかりたくないのに探偵は言葉を止めようとしないのだ。一方的に神託を告げる神様にでもなったつもりだろうか。いっそ殺してやりたい。拘束具さえ取れればそれができるのに周子の腕はぴくりとも動かない。
「ああ、あれは懺悔室でも何でもないんだ。ここには神も仏もいないし。私だって聖職者じゃない。許しを与えられなんてしない。そもそもあそこに入れるのは、招かれたものたちだけなんだから。だから、君たち自身しか、君たち自身をどうにかできない」
 探偵は笑う。
 周子は笑えない。
 笑いながら、探偵は言う。
「この門をくぐるものは一切の望みを捨てよ。冗談めかしてるけど、正しくもある。この先にあるのは地獄なのよ」
 現実で死体になるか。
 楽園で生きていくか。
 ただそれだけなのよ。
 そう言って、探偵は笑う。
 周子は笑わない。
 周子は笑えない。
 否定も肯定もできない。
 何のために?
 周子は、何のために、教会まできたんだろう。
 周子は、何のために、探偵と会っているんだろう。
 周子は、何のために。
 何のために、生きて、いるのだろう。
 わからない。
 周子は。
 周子は、ただ。
 愛して、欲しくて。
 周子を、独りにしないで、欲しくて。
 でも、それは。
「一人が治って外へと出向き、一人の命が失われて、そして最後の一人が取り残される。あの噂、ほんと?」
 聞く必要のない言葉が、周子の口から漏れる。もうそんなことしか言えなかった。聞く必要はないってわかってるのに、俯いたまま、周子はぼそりと言うことしかできない。
「それは愛情? 君はルームメイトを心配しているの? 香取周子。君は自分のこと以外はどうだっていいのに、その心配は自分自身には向かない。自分の世界を構成するものに、自分自身が欠けている。その歪つさが、君の病気なんだって――」
「そうだよそんなことは言われなくたってわかってる。周子は許せないだけなの。勝手にいなくなるなんて許さない。天使も吸血鬼も周子のものなんだよ。周子のために存在するんだよ。周子に無断で失われるなんて許さない。許せない」
「許す許さないを決めるのは――いやまぁ。私ではないね、それは。その通りだ」
 言って、探偵は肩をすくめた。自分にはどうにもできないよ、という本音が伝わってくる。嘘を言っていない。探偵は真実を知っているだけで真実を作るわけじゃない。彼女にだって何の権限もない。
 溜息も出なかった。
 なんだか疲れ果ててしまって、周子はなんだかもうどうでもよくなって、なんとでもなれ、という捨て鉢な気分になる。探偵の元に歩み寄り、お菓子を奪ってばりばりと食べる。探偵の笑みが腹立たしい。ばりばりと咀嚼しながら、周子は訊ねる。
「これ、何が入ってるの?」
「いろいろ入ってるよ」
「そうだと思った」
「心を穏やかにする成分が紅茶には含まれているし」
「そういうのはいらない」
「少なくとも愛情が入っていないのは確かだよ。手作りじゃないからね」
「そういうのもいらない」
 お菓子と紅茶を、周子は全て食べ尽くす。それで終わり。
 明日の夜にはもう、お腹の中にも残っていないだろう。きれいさっぱり食べ終えて、消化して、命の糧になって、最初からなかったように名残りさえ残らない。
 だから、周子に懺悔することなんて、何もないのだ。
 お父さんとお母さんを殺したことも。
 周子を拘束しにきた教職員たちを殺したことも。
 目と目があうだけで、人を殺せることも。
 もう全て、終わってしまったことなのだから。
 語るべきことは、何もなかった。
 何も。
 何一つ。
 周子のもとには、残されていなかった。


                                (邪眼編....了)