4/悪魔憑きの天使

(「カリンカプラン 春物語」 第一章「ある天使の一日」より)

 

 



 ――生きることは罪深いことなのだと、わたしは知らなかったのです。


「アリア」

 わたしは、名前を呼ばれるのが好きでした。十アリア。それがわたしの名前。お父さまとお母さまから貰った、大切な名前。綺麗な音。
 アリアというのは神様のための言葉なんだよ、と教えてくれたのは、お父さまでした。神様がいる天国のある場所の名前。神様へと祈りを届かせるための名前。神様のための、祝福された、名前。お父さまは繰り返し、繰り返し、わたしにそう言いました。

 神様がくださったのだ、と。

 わたしという人間は、神様がくださったものなのだと。神様が、お父さまと、お母さまにくださった、子供。それがわたしなのです。だからわたしは、いつかお父さまとお母さまが手放したら、神様のもとに還るのだと、ぼんやりと考えていたくらいです。

「アリア。お前のその美しく白い肌も、髪も、瞳も、何もかもが神様がくださったものなんだ」

 そう言って、お父さまはわたしの身体を撫でます。わたしの肌を、髪を、瞼を、ひとつひとつ丹念に、なにかを確かめるようにして撫でてゆくのです。わたしはぼんやりと、それを受け容れます。
 それは儀式なのです。
 それは祈りなのです。
 神様から頂いたものを確かめるための。毎日繰り返される、儀式。だから幼いわたしは、何の疑問もなく、それを受け容れていました。それがいったいどういう行為なのかを知ったのは、学園で暮らすようになってからですが――わたしは今でも、お父さまが悪い人だとは思えないのです。
 だってそうでしょう?
 お父さまの声は、動きは、祈りに満ちていました。わたしを通して、お父さまは神様に触れようとしてました。すがるような、可哀想なお父さま。
 もしもお父さまが、悪い人なら。
 誰も彼もが、悪い人に違いないのです。

「アリア。知っているかい。肩甲骨はね、翼の名残りなんだ。人間はね、昔はみんな、翼が生えていたんだ。だから神様が身近だったんだよ」

 言いながら、お父さまはわたしの背中に触れます。服は着ていません。むきだしの背中に、お父さまの指先は触れてゆきます。
 この頃は、わたしの背中には、翼は生えていませんでした。
 天使のような翼も、悪魔のような翼も、そこにはありません。
 あるのは、人間としての骨だけです。肉付きの悪いわたしは骨ばっていて、浮きあがった骨の形を確かめるように、お父さまの指先は、何度も何度も背中を往復します。
 わたしはぼんやりと、それを受け容れます。

「アリア。楽園を追い出された人間は、罪が積み重なって、やがて翼がなくなってしまったんだ。肩甲骨だけが、遠く離れた神様との繋がりなんだよ」

 お父さまの唇が、わたしの肩甲骨に触れます。すぐ間近から話しかけられているので、まるで、肩甲骨とお喋りをしているかのようです。
 あるいは、その向こう側にいる神様と、お喋りをしているのかもしれません。神様に向かって、話しかけているのかもしれません。
 でも、その声が神様に届くことは、きっとないのです。
 背中に執着するお父さまは、わたしの声を聞いていません。
 なんとなく、わたしにもわかるのです。
 お父さまは、わたしが欲しいのではなく。
 わたしの向こう側にいる、神様が欲しいのです。神様に救ってほしいのです。わたしの翼で、神様のもとに連れていってほしいのです。
 ごめんなさい、お父さま。
 わたしには、翼が生えていないから。翼の名残りの、肩甲骨しかないから。お父さまを天国に連れていくことは、できないんです。わたし自身さえも、天国には辿りつけないのです。
 だからわたしは、じっと、空を見つめます。
 天国に繋がる空を。

「アリア。私たちは、未だ神様と繋がっているんだ……繋がりさえあれば、いつかは許されて、神様のもとへとゆけるんだよ……」

 青い空は、小さくて、遠かったです。
 なぜって、わたしの部屋には、小さな窓が一つしかないのですから。手が届かないほど高いところにある小窓からは、空しか見えません。わたしにとっての『外』とは、その小窓だけです。
 鍵のかかった、小さな部屋。
 神様のことが書かれた重い本しか置かれていない、何にもない、真っ白い部屋。わたしはその部屋から出ることができません。外に出たら罪に汚れてしまうよ、とお父さまは言いました。だからわたしは、産まれたときからずっと、この部屋の中しか知らないのです。
 お父さまと、
 お母さまと、
 神様。
 それだけが、わたしの世界の、全てです。本に書かれたことと、小窓から見える空だけが、わたしにとっての外なのです。何一つ不自由はありません。世界には全てがあります。わたしは満たされています。
 アリア、と。
 お父さまは、わたしの名前を繰り返します。わたしが貰った、数少ないもの。大切な言葉を、何度となく。

「アリア。お前は、神様がくださったんだ……」

 お父さまの声は、ほとんど泣いているようでした。お父さまはこうしてわたしの部屋を訪れては、懺悔するように泣き、祈りを繰り返すのです。
 わたしにはわかりません。
 神様がくださった?
 何を?
 それはきっと、罪を。
 罪を持って、生まれたのです。そうでなければ、わたしの背中には綺麗な翼が生えていて、お父さまとお母さまを天国に連れていったはずなのです。
 わたしは望みます。
 いつか。
 いつか、翼が生えて。
 いつか、罪が許されて。
 いつか、天国へ。
 けれど。
 そのいつかは、あっけないほどあっさりと、わたしのもとに訪れたのでした。
 わたしが望んだのとは、違う形で、ですが。

「――兄さん! 貴方は、また血がつながった人間を――」

 ある日、お母さまの叫びが扉の向こうから聞こえたのが、終わりの始まりでした。わたしの身体はゆっくりと大きくなって、お父さまの祈りは繰り返されて、お母さまがだんだんと調子を崩されていることに、わたしは気づいていました。気づいていても、わたしにできることは、何一つとしてありませんでした。
 だからそれは当然のように訪れたのです。
 お母さまはきっと、罪を背負って生きていくことに、疲れていたのです。だからきっと、つい口走ってしまったのでしょう。
 ――兄さんと。
 お父さまとお母さまの関係を、わたしは、そのとき初めて知りました。そのときのわたしの驚きといったら、言葉にできないほどのものでした。だってそうですよね。神様のことについて書かれていた本では、それは悪いことなんですから。
 だから。
 驚きのあとにやってきたのは、納得でした。

「――あの子は、呪われた子よ」

 お母さまの言葉に、わたしは深く頷きます。もう驚きはありません。その言葉は、すっぽりと、わたしの胸を満たしました。
 ああ、やっぱり。
 わたしは祝福されて生まれてきたのではないのですね。
 わたしは呪詛によって生まれた子なのですね。
 わたしは、罪深い、悪い子なのですね。
 だから、天国に行けないのですね。
 だから、生きることは、こんなにも――

 わたしの背中から、醜くねじれた罪の証が生えてきたのは、その夜のことです。

 そのことに、わたしは――なんだか、ほっとしてしまったのでした。




(天使編...了)
(吸血鬼編に続く)