1/香取周子と十アリア

(「カリンカプラン 春物語」第三章「ある邪眼の一日」より)

 


 周子の世界は真っ暗だ。

 それはお先真っ暗とかいう意味じゃなくて、単純に、拘束具で視界を塞がれているからだ。二人以上の、しかも権限のある職員の立ち会いがないと拘束具を外してくれないので、事実上ほとんどつけっぱなしということになる。そんなに警戒しなくてもいいじゃんと周子は思うんだけれど、こんなものはまだ軽いもので、研究所の方から来た人たちの警戒っぷりときたら笑えるくらいだ。完全に危険物を触るような手つきで触れてくる。
 知ってるのかな。
 動物って警戒されると逆に攻撃したくなるって。
 でも周子は動物じゃなくて理性を持った人間なのでそんなことはしない。周子は動物として愛して欲しいわけじゃないのだ。学園の職員たちにとって生徒たちは実験動物かペットみたいなものなのだろうけれど、周子は周子として愛してほしいのであって現状には不満しかない。だからといって、文句を訴えたとしても職員たちの態度が変わるはずもない。この学園に強制収容されてからそれなりに経ったけれど、ここは時間が止まったかのように変化がない。敷地に咲く花や気温の変化で四季を感じるくらいで、時間はとても緩やかに流れてゆく。
 ゆるやかに朽ちていくかのよう。
 治る気配はない。悪魔憑きの病、なんていうけれど、周子にしてみればこんなものは病気でもなんでもない。だから治るはずもない。ここは病院ではなく監獄なのであって、そしてもっといえば墓場だ。墓場から出たものはゾンビとして撃ち殺されるのが世の常であって、周子たちはここで大人しくしておくべきなのだろう。学園の教職員たちからは、それでもまだ愛情じみたものを感じなくもないけれど、母体となっている研究所からの出向組からは警戒心しか感じない。頼むから問題なぞ起こしてくれるなよ、という冷たい気配を感じる。問題を起こしすぎたら処分されてしまうのだろう。ああ怖い怖い。
「研究所のひとたち、もーっと仲良くしてくれてもいいですよね。しゅーこ、みんなと仲良くしたいのになっ」
 保健室の先生にそう言うと、彼女は曖昧な笑みを浮かべた。言っていることはわかるけれど立場上頷くのは難しいという顔。この人は派閥的には研究所よりなんだけれど、保健室の教職員という立場上周子たちと触れあうことが多くて、だんだんと同情的になっていっている。感情移入してしまっているのだろう。
 わかってるのかな。
 前任者が感情移入しすぎてどうなったのかってこと。
 もちろん周子は知っているけれど、そんなことはおくびにもださない。この保険医が処分されるのはもったないないとは思うけれど、だからといって周子たちと距離を置かれたらつまらない。周子は、もっと周子に構って欲しいのだ。貴重な話し相手を失いたくない。このままずぶずぶと泥沼にはまってほしい。
「しゅーこ、やっぱり仲良くするのがいちばんいいと思うんですよねっ。先生たちも、研究所のひとたちも、しゅーこたちも、みーんな仲良し。幸せな世界っ! やったぁ! ……無理かなぁ?」
 顔色をうかがうようにして訊ねると、保険医は難しいでしょうけどそうなるといいわね、としみじみと言った。それは本気で言っているようで、おいおい大丈夫ですか正気ですかと言ってしまいたくなる。必要以上に仲良くなりすぎるなと研究所の方からは釘をさされているはずなのだけれど、危機意識が足りていないのかな。
 仲良くなるな、というのは、周子たち悪魔憑きと研究員が――というわけではない。研究員と教職員が、という意味でもある。研究所と学園の関係性は複雑で、おまけにどちらも一枚岩ではない。書類の偽造は当たり前で、報告書にはところどころ矛盾が存在し、人間は増えたり減ったりする。しかもそれが問題にならないのは、この学園そのものが悪魔憑きという病に侵されているからとしか思えない。
 たぶん、そうなのだろう。
 この学園は病んでいる。悪魔憑き、なんていう奇病の少女を押し込めた箱庭で暮らしていて、普通の人間が普通でい続けるのは難しいのだろう。教職員たちは少しずつ壊れてゆく。何にも動じなくなって常に幸福そうに微笑みだすか、さもなければ追い詰められていつのまにかいなくなる。生徒の数が増減するのと、教職員が増減するの、そこまで数としては大差ないような気がする。
「保険医のせんせーも、しゅーこと仲良くしてくれますよねっ? あ、でも、お茶菓子めあてに通ってるんじゃないですよ? そんなきゅーちゃんじゃないですし。しゅーこ、これでも食べ過ぎないように気をつけてるんです」
 ダイエットは体に悪いわよ? と保険医は笑って、わたしも笑い返した。保険医の気配に嘘はなくて、彼女は愛想笑いではなく周子の言葉にまざる日常の気配に癒されている。非日常的な存在ばかりを相手にしているから、ダイエットという単語にすら癒されるのだ。彼女の笑みは本物で、そこに混じる疲れも本物だ。
 もちろん、見えているわけではない。
 学園が作った拘束具は完璧で、光がまったく入ってこない。こんなもの力づくで外せるのではないかとも思うんだけれど、不思議と外せないしそもそも自分では触れる気もしない。たぶん投薬による抑制かさもなければ脳みそを弄られてるのだろう。冗談ではなく。ここの母体は脳みそを専門とする研究所なのだから。
 悪魔憑きの病は、頭がおかしくなる病気だ。患部が発生する場所は人それぞれだけれど、原因はおおむね脳みそだという見解が主流らしい。脳みそがおかしくなって、世界をおかしくしか認識できなくなって、自分にしか見えない世界に適合するように自分自身の身体を脳みそが作り変える。そうして結果として現実の世界に適合できなくなる。冗談ではないけれど、悪い冗談のようだった。
「そりゃあえんちゃんとかは? もっと食べたほうがいいくらいですけど? しゅーこは食べたら食べたぶんだけ栄養になっちゃうんです。油断すると危ないんです。そういうのってあるでしょ? だからえんちゃんに今日も差し入れを持ってきたのですよ」
 厄介なのは、一人一人認識している世界が違うということだ。悪魔憑きの病、とひとくくりにしているけれど、見ているものは全員が異なる。同じ病気の人間だから同類意識が発生するかというと難しい。周子の世界は、周子にしか見えないし、認識できない。世界に独りぼっちだ。
 閉ざされた世界。
 真っ暗な世界。
 代わりに周子は、それ以外のもので世界を把握している。嗅覚とか、聴覚とか、触覚とか、世界を飛び交う電波とかで。周子の瞳は機能が拡張されているから、何も見えなくても感じとることはできる。誰がどこにいるのかとか、どんな表情をしているのかとか、嘘をついているのかとか、色々だ。よっぽどじゃないかぎり、周子に隠しごとはできない。そのことは、学園側にも把握されている。把握したうえで、放置されている。
 学園側が警戒しているのは、周子の受信能力じゃなくて、発信能力の方なのだから。
 そこまで警戒しなくていいのに。
 ちょっと両親と職員を数人壊しただけなのに。ねぇ。
「えんちゃん、奥で寝てますか? 寝てる? はいはい了解です! 最近えんちゃんよく倒れますよねー。春だからかな?」
 保険医との話を切り上げ、部屋の奥、カーテンがかかったベッドの元へと歩み寄る。えんちゃん。えんじぇるのえんちゃん。背中から蝙蝠めいた翼の生えた天使は、寝辛そうに横向きになっていた。うつ伏せか横向きじゃないと寝られないのは不便そうだ、といつも思うけれど、視界が真っ暗に閉ざされている周子とどっちが不便なのかは難しいところだ。
 天使は眠ってはいなかった。横になって、まどろんでいた。意識がはっきりしていないなというのは伝わってきて、もしかしたら半分は眠っていたのかもしれない。夢を見るような気配で、天使は周子のことを見た。
「周子さん……? おはようございます」
「おはようえんちゃん。もうお昼過ぎたけどねっ」
「あ……起きたら、おはよう、というように教わったんです。こういうとき、おはよう、じゃないほうが、良いんでしょうか?」
「どっちでもいいんじゃないかなー?」
 というかどうでもいい。
 周子にとって肝心なのは、周子に挨拶をしてくれるかどうかということであって、それがどんな言葉かどうかなんてどうでもいいのだ。やぁでもよぉでもグッモーニンでもなんでもいい。周子に構ってくれるという、そのこと自体が周子にとっては重要なのだ。
 そういう意味では、天使は合格ともいえるし不合格ともいえる。天使は周子に挨拶をしてくれる。周子の話をしてくれる。周子に構ってくれる。でもそれは、そういうルーチンワークが組まれているというだけだということに、周子は気づいてしまっている。そうしなさいと言われたから。そういう風に習慣づいているから。目覚めたらおはようというのがルールだから。ただそれだけ。
 人工知能を相手にお喋りしているか、さもなければ延々と壁打ちしているようなものだけれど、それでも学園の中ではましな方だ。自分独りきりの世界に閉じこもって、外界にいっさい反応しないような悪魔憑きだっている。周子の相手をしてくれていることには違いないのだからこれでいいのだ、と周子は自分に言い聞かせる。そうでもしないとやっていられない。
 それに。
「そんなことより、えんちゃんお昼食べてないよね? 先生にお願いしていっぱい持ってきたから、ここで食べちゃおっ。えんちゃんは好き嫌いないから何でもいいよね」
「え、はい。でも、いいんでしょうか?」
「いいのいいの。病人は病院でご飯食べても怒られないんだから。保健室で食べてもいいの。保健室登校ってやつだね!」
 周子が笑いかけると、天使も微笑みを返してくれる。やったねコミュニケーションだと周子はささやかな満足を得る。それはそう習慣づけられているというだけなのかもしれないけれど、そんなことは外側から見ていたらわからない。目を閉ざしてしまえば一緒だ。自分以外の全員が高度な人工知能でも、ネタバラシをされなければ気づかないように。なんとかゾンビ問題だ。ゾンビの悪魔憑きも、探せばいるのだろうか? ここ以外にも同じような研究施設があるって噂では聞いたことあるけれど。
 噂。
 コントロールされた噂。
 噂は自然発生しない。それは外側から流入してくるもので、さもなければ内側にいる誰かが意図的に流すものだ。高い壁によって囲われた学園の中では、それらはおおむね等しい意味をもつ。つまり、噂が流れるときは、そこには誰かの意志が関わっている。情報をいいように使って世界をコントロールしたいという嘘を感じとってしまう。その誰かは大抵は学園側の偉い人なので、つまりはそれすらも実験の一部なんだろうけれど。
 治療ではなく、実験。
 周子たちは患者ではなくモルモットだ。
 でもさぁ。
 モルモットだって幸せを追求してもいいよね?
 周子にだって、幸せになる権利くらい、ある。
 たとえ神様がそれを与えないのだとしても。
 勝手に幸せになったって、いいはずだ。
「えんちゃんえんちゃん、お話し、お話ししよ! ご飯食べながら! はい、あーん」
「はい、ありがとうございます。周子さんにも、お返ししますね」
 周子が食堂からもってきたご飯を食べさせてあげると、天使も周子にご飯を食べさせてくれる。周子たちは互いに相手の口にご飯を運び続ける。シーツが汚れないように。零れ落ちないように。失わないように。ゆっくりと、互いの口に指を運ぶ。
 互いに、互いを満たそうとする。せめて形だけでも。

 ――周子たちが幸せになれないのは、きっと、何かが足りないからなのだ。

 そのことはわかっている。周子も、天使も、吸血鬼も、胸の中にぽっかりとした穴がある。その穴を埋めようとして身体を作り変えても本来不必要な臓器は穴を埋めきれずに負担になるばかりで満たされることはない。
 何かが足りない。
 何かが欠けている。
 自分一人で完結できない。
 いっそ気づかなければ楽でいられたのに。そのことに気づいてしまったら、もう、あとは求めるしかないのだ。
 自分ではない誰かに。
 心を。

 たとえそんなものが、神様みたいな幻でしかないのだとしても。